ビスポーク(オーダースーツ)

フルオーダーのスーツが消える……深刻な問題

投稿日:令和4年(2022) 11月19日 

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フルオーダーのスーツやジャケット。

いつかは仕立ててみたいと思っている方、また、既に楽しんでいらっしゃる方も多いと思います。

じつはここ数年、(昨今のインフレや生地価格高騰とは別に)値段が急激に上がったり、取り扱いを止めたりという現象が起きています。

実はその裏に、日本が抱える深刻な問題がありました。

1.20~30万円程度のフルオーダースーツが消滅しつつある

フルオーダースーツとの出会い

十数年前、新入社員だった私が胸をときめかせていたのは、クルマでもエンタメでもなく、オーダースーツでした。

当時、オーダースーツは「おじさんの嗜み」といった風潮が残っていました。しかし、毎日仕事で着るものが、より快適で、より格好良くなるというパフォーマンスの良さ、そして若手が誰も見向きをしていないという特別感が、私をオーダースーツの世界に引きずり込みました。

既に大学生の頃からイージーオーダーをしていましたが、就職しある程度懐に余裕ができたとき、イージーオーダーの数倍の金額を払い、清水の舞台から飛び降りる覚悟で手を出してみたのが、フルオーダースーツでした。

イージーオーダーとの違い

イージーオーダーは、デザインの元となる型紙はコンピュータにより画一的化され、裁断は機械、縫製も基本的にはミシンを用いるなど、工程を極限まで効率化しています。

対してフルオーダーは、型紙作成や裁断は手仕事でかなり融通が利き、好きなデザインに仕立てる事ができます。縫製も直線部分などを除いて手縫いが多く用いられ、着心地がとても良くなります。(その他にも芯材や、アイロンワーク、ボタンホールなど様々な違いがあります。)

イージーオーダーが安価なもので1着2~3万円だった当時、安めのテーラーでフルオーダーが20万円台だった記憶があります。

それ以来、いくつかのテーラーでフルオーダースーツを作ってきました。もちろん、おいそれと注文はできず、基本はイージーオーダーでしたが。

次々と取り扱いを中止

しかしここ数年、フルオーダーの取り扱いを止めるか、大幅に値上げするテーラーが増えました。

私がお願いしていたテーラーも、数件が取り扱いを中止し、イージーオーダーのみとするか、大幅な価格改定に踏み切りました。

その理由を尋ねると、テーラーが口を揃えて言うのが、「職人の引退」でした。(当初注文が減ったせいかと思ったのですが、近年のオーダースーツブームでむしろ増えているとのことです。)

 

2.熟練技能者の「完全引退」

テーラーから詳しく話を聞くと、20~30万円台のフルオーダースーツは、高齢の熟練技能者によって奇跡的に支えられてきた世界だったことが分かりました。

熟練技能者によって支えられたフルオーダー

(既製服やイージーオーダーが普及する前の)フルオーダー全盛の時代に修行した高齢の熟練技能者たちは、とても高い技術を持っています。しかも、一旦引退した方が、年金を貰いつつ、副業的に安価に業務を請け負ってくれるという、貴重な存在でした。

そう、この価格帯のフルオーダースーツは、そういったセミリタイア熟練技術者の皆さんに支えられた、かなり特殊な環境にあったのです。

熟練技能者の「完全引退」と後継者の不在

そしてここ数年、そういった熟練技能者が年齢により完全に引退し、フルオーダーの取り扱い中止や大幅値上げに繋がっていたのです。

しかも、手が早く品質も高い熟練技能者が、かなり安い単金で仕事を請け続けていたことが仇となり、若手が育たない環境が出来上がってしまっていたのです。(あるテーラーは、アジア圏から外国人の有望な若者を受け入れてましたが、経済格差の縮小――というか日本の実質賃金の伸び悩みで、みな母国に帰ってしまったそうです。)

高いと思っていた20~30万円のフルオーダースーツは、実際は適正ではない、とても安い金額だった可能性があるわけです。

 

3.フルオーダースーツの適正価格って?

そこで、20~30万円のフルオーダースーツが本当に安すぎたのかを簡単に検証してみます。

1着の工賃は推定23万円

フルオーダースーツは、かなり手間のかかる製品です。熟練の職人が仕立てる場合、スーツ上下で丸5日間(5人日)は必要です。しかも、一日の作業時間は12時間にも及ぶとのこと。(この長時間労働も後継者が育たない要因だと思います。)

つまり、一着の完成には最低でも60時間(60人時)必要ということです。

次に、正社員として企業内に職人を抱えることを前提に、費用を試算してみます。

資料<*1>によると、製造業の平均年収は約370万円ですが、一般的に、社会保険や福利厚生の費用などを考慮した雇用コストは給料の倍と言われていますから、コストとしては740万円/人年とします。別の資料<*2>によると、製造業の労働時間は1,900時間/年とあるので、1時間あたりのコストは約3,900円となります。

一旦利益を考えずに最低ラインということで計算を進めると、3,900円× 60時間で、工賃のみで一着234,000円に。この時点で、原価割れしていますね……。

*1 厚生労働省「令和3年賃金構造基本統計調査の概況」
*2 厚生労働省「毎月勤労統計調査」(H21)

生地代や利益を含めると50万円?

そして、ここに生地代、店舗やコスト部門の維持費、そして利益等々を入れると、適正と想定される販売価格は50万円程度でしょう。この数字は、今でも営業を続ける都心部のフルオーダー店の価格と近似します。

やはり20~30万円程度では、適正な賃金を職人に支払うことはできず、若者がその道を目指そうとはしなくなるわけです。

 

4.この先どうなる?

一着50万円もするスーツに、一般のサラリーマンが(例え趣味とは言え)手を出すのは難しいでしょう。

したがって、この先フルオーダーを楽しめるのは、一部の本当に限られた富裕層になりそうです。しかも、若手の職人がしっかりと供給され続ければ、の話です。

くわえて、この価格帯はラグジュアリーブランドの吊しのスーツとも競合するため、デザインとフィッティングの両方に優れた、ほんの一部のテーラー・職人しか残らないでしょう。

個人的には、日本には本場の欧州に比肩する、優れたフルオーダースーツの技術があると思います。しかし、私たち庶民がそれを体験できる機会は、もはや残されていないのかも知れません。

「仕事着=スーツ」の常識が崩れ、世間的にスーツ離れが進む中、オーダースーツは趣味としてのスーツ文化が生き残る、一つの突破口だと見ています。その中でもフルオーダーはとても奥深い領域なのですが、一般人の手が届かない世界になっていくのだろうと感じています。

 

※ 本稿は、私が複数のテーラーから聞き取った情報を総合して作成しました。業界関係者の方で、ここは違うよ、というご指摘がありましたら、是非コメントをお寄せ下さい。

 

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